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「陛下のお気が済むようにどうぞ。」

特に挑発する訳でもない静かな自分の声は、まるで他人の声を聞いているかのようだった。

それと同時に、羞恥と混乱に熱くなった頭の中がザアと音を立てるように冷たく醒めていく感覚に襲われる。

極彩色に染められた世界がゆっくりと薄衣に覆われていくような感覚に包まれ、現実感が喪失した。

先ほどまで耳の中でドクドクと脈打っているのが判るほどに高かった鼓動も、今はまったく潮がひくようにただ静かだ。

「そうしよう。来い。」

キラは言われるままゆっくりと父のベッドの上に寝そべる王のもとへ近づいた。

素足で歩く寝室の床は、元々毛足の長い絨毯が引かれているとはいえ、想像以上にふわふわとした感触を伝えてくる。

たった数歩の距離。

洗練された隙の無い足取りは揺るがないが、どこか覚束ない爪先。

そして、手を伸ばせば届くところまで辿り着いたその時。

冷たい手の感触を左腕の包帯越しに感じたと思った瞬間、キラは強い力で引き倒され王の膝の上に倒れ込んでいた。

無意識に庇っていた傷が急激な動きに引き攣られて口を開く。

「・・・っ!」

ギッと容赦無い力を込められた指が傷口にくいこみ、思わずうめきが漏れた。

包帯がじわりと生暖かく濡れる感触を肌で感じ傷が開いた事を察するが、抵抗が実を結ぶとは思えない。

「こんなことをなさらずとも、・・逃げは致しません。」

キラは肌触りのよいベッドの毛布に反対の手をつき、顔を上げようとした。抵抗の意思ではなく、単に楽な姿勢を確保しようとしただけ。

だが、そんな僅かな動きすら最後までキラの思う通りにはならなかった。

「っ!?」

一瞬でキラの視界が反転した。

トサ、と軽い音を聞いた直後に背中に感じたのは柔らかなリネンの感触。

キラには見えない角度から伸びた王のもう片方の腕が喉輪を掬いベッドに縫い止めるように倒されたのだが、しかしキラにはどうしてこうなったかを考えられる状況ではなかった。

起き上がることを阻止するというより最早息を止めるほどの強さで、馬乗りになった王の手がキラの咽喉に食い込んでいる。

目を見開けば、闇色に縁取られた翠の目が無慈悲にキラを見下ろしていた。

「ぐ・・・・・・」

殆ど本能的に自由な右手で咽喉に食い込む指を引き剥がそうとするが、王の指は全く揺るぐ様子も無くキラの首に絡みつく。

苦しさから無意識にもがくが、王はそれをまったく気にする様子も無い。

脈動を塞き止められ目の前が真っ赤に染まり、食い閉めた歯の奥で耳鳴りがした。

「逃げはしないだと?笑わせるな。」

明らかに怒りを含んだ冷たい声が耳鳴りに混ざってキラに届いた。

このまま縊り殺される可能性が頭を掠めるが、唐突に咽喉を締め上げる手が離れ、必死に呼吸していたキラは突然肺に送り込まれた空気にむせる。

「・・・っ・・ゴホッ・・・・・・・・」

首を絞められた理由はもちろん開放された理由も判らず、キラは混乱を抱えたまま何とか息を整えようと横を向くが、その僅かな暇さえ王は許さなかった。

まるで荒事など知らぬように白い王の指は恐るべき力を持ってキラの顎を掴み、横を向いたキラを自分へと向かせた。

先ほどからの扱いには怒りよりもまだ混乱がキラの中にあり、呆然と紫玉の瞳を見開いたその目の前。

気づけば息がかかるほどの距離に、冷たく燃える緑の虹彩がキラを見下ろしていた。

「俺が気づかないとでも思ったか?もしそうならば随分見くびられたものだな。」

「なんの・・・ことです・・・?」

締め上げられた咽喉から発する声は酷くかすれていたが、聞き取れないほどではない。なにより、何が王の怒りを買ったのかその理由が判らず、言葉に詰まる。

何より、苦しさで潤んだ瞳が無体な問いに頼りなく揺れた。

「・・・・・・・・・そうか。」

言葉より何より、雄弁に困惑を語る宝玉のような紫に、王はキラの台詞がただの言い訳でないこと理解した。

気勢を削がれたのか王は掴んだ顎と腕を放し僅かに身を起こすが、頬にかかる藍の髪に隠れた緑の目は、まだ苛立ちが燻っている。

うるさげに髪をかき上げた手をキラの顔の横に突くが、その仕草は必要以上に鋭くベッドのスプリングが跳ねた。

「なるほど、無意識にか。」

口端を歪めた王の表情。しかし発せられた言葉は端的に過ぎて、キラには理解できない。

「何が・・・でございますか。」

また不興を被ることを覚悟で、キラは聞く。それに返る答えは、キラにとって意外なものだった。

「お前が逃げている、ということだ。」

王の返答に、キラはいぶかしげにしんなりと眉を寄せる。ここまで身体を投げ出して、どこが逃げているというのか。

そんなキラの気持ちを見透かしたように、王は小さく笑う。尤も、その笑みはとても他人を楽しませるものではなかったが。

「そうだな、身体的には逃げようも無い。・・・だが、精神的にはどうだ?」

「え・・・・・・・?」

「この部屋に入ったときから心此処にあらず、という顔だったな?・・・俺の前で現実逃避とは恐れ入る。」

「そんな、私はそんなつもりは・・・・」

驚きキラは否定しようとするが・・・その言葉は最後まで声にならなかった。

先ほどからの違和感。寝室に入ったときから続く、いつもの自分では考えられない茫洋とした思考。素足で床を踏みしめた時の心もとなさ。服を脱いだときもまるで他人事のようで、羞恥心は薄かった。

その理由は・・・今、王が言った理由そのためではなかったかと。

「・・・お前がどういうつもりだったかはこの際どうでもいい。だが、契約を交わした以上逃げる事は許さない。お前には、オーブの民草を購ったその意味を、身をもって理解して貰う。」

王は、キラの首についた指の形そのままを残す痣をそろりとなぞった。

これからの行為を予感させる手の感触は、官能ではなく激しい嫌悪をキラに齎す。

しかし現実逃避を指摘されたキラに、最早無意識の逃避は許されなかった。

そして、明らかな性欲を含んだ指の動作を理解したその瞬間―――指先に触れるキラの肌は一気に粟立った。