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「着替えの前に身体を洗った方がよさそうですね。」

天幕を出たニコルは、キラを頭の先から靴の先までを見てまずそう言った。当然キラにも異存は無い。塔での戦闘で避けられなかった返り血がキラの髪を赤黒く固めてごわついている。

こちらから要求できるような立場ではない為努めて気にしないようにはしていたが、むせ返るような血の匂いは一刻も早く洗い流したいところだ。

仮にも戦場に立つものとして多少の生臭い状況は我慢することはできるが、全身に返り血を浴びてそれを喜んで放置できるほどキラは血に飢えた異常者ではない。

また、深手のものは無いとはいえ、キラ自身が流した血もある。手当ては当然必要だった。

ニコルの好意で彼の天幕へと案内され、キラは漸くそこで身体を洗う事を許された。進軍を続ける軍隊にとって水は貴重なものであるはずだが、城下の井戸を確保した余裕からかニコルの命令によって水は惜しげもなく運ばれた。

とりあえず頭の血糊だけでも落としてしまおうと、どこから持ってきたのか大きなタライに張られた水に頭を突っ込むと、水はカンテラの中で揺れる炎の為だけではない色にあっという間に染まる。

ついには面倒だとイザークはタライに服を剥がしたキラを放り込まみ、頭から水を被せてきた。ニコルは薬と傷に巻く清潔な布を奴隷に命じながら、苦笑するだけで止めもしない。

漸く身体を流す水がまともな色になり、キラは石鹸を与えられて身体を洗った。傷には沁みるが、これで血の匂いは消えてくれるだろう。

身体を洗ったことで再び血を流し始めた傷口には薬が塗られ包帯が巻かれ―キラは気づいていなかったが、肌の結構な面積を覆う事になった―、そうして漸くキラは緋色のプラント軍の軍服に袖を通した。

「気にいりませんか?」

先ほどの武官の態度が示すとおり、この緋の軍服はプラントの人間にとって憧れのなのだろうが、キラの顔は浮かなかった。

勿論、敵国の・・・いやもう忠誠を誓ったのだからそうは言えないのだが・・・軍服を身に着けることへの嫌悪はある。

だが何より、この鮮やか過ぎる赤が、今尚、自分が斬り捨てたものの血を纏っているようで。

ただの布に過ぎないものがずっしりと重く感じられた。

「・・・いいえ。ただの感傷です。」

「そうですか。」

力なく首を振るキラに、ニコルはそれ以上何も言わずうなずいた。自国を滅ぼした軍の軍服を、何も思わずに身に付けられるはずもない。

ニコルが判っていてそれを口にしたのは、嫌味でも間を繋ぐ為でもない。キラの反応を見る為に他ならなかった。

イザークならば、眦を吊り上げて『気にいるはずあるか!』と怒鳴ったろう。事実、天幕にしつらえられた一対の椅子に座り足を組んだイザークは不機嫌そうにニコルを睨んでいる。

しかし口を挟んでこないのは、何でもかんでも口出しすれば自分だけでなくキラの心象までを悪くするだけと判っているからだ。

ニコルはマティウス侵攻には隋軍しなかったが、その顛末は聞いている。イザークは同じような境遇にあるキラを放っておけないのだろう。

とはいえ、まるでその様子が、頼りない弟が心配だが容易に手を出す事が出来ずに苛ついている兄のようで、ニコルは思わず小さく笑った。こんな彼は初めて見る。

「では、改めて自己紹介をしましょうか。」

ニコルは人好きのする温和な笑みをキラへ向けた。自分の笑顔が他人にどんな影響を与えるか、知り尽くした笑顔だった。

「僕はニコル・アマルフィーです。若輩ながら、ザフトの大隊長を勤めさせていただいています。」

「キラ・・・アスハです。よろしくお願いします。」

ニコルが件のザフトの大隊長であったということに納得しつつ、キラは自分をそう名乗った。

本来、キラが生まれたときに名づけられた名は『キラ・ナラ・アスハ』だ。

しかし、『ナラ』とは直系王族の長男という意味を持つ、ある種記号的な意味を持つ名の一部。姉のカガリ・ユラ・アスハの『ユラ』もまた、直系の第一王女という意味だ。

王国自体が消滅し、自らプラント王国に下った今、『ナラ』の名を名乗るのはふさわしくない。

キラが口にした名に、ニコルはキラの潔さと覚悟を感じた。

「よろしくお願いします、キラ。僕のことはニコルと呼んで貰ってかまいません。そこにいるイザークも呼び捨てですから。」

「・・・文句があるなら言え。」

「いいえ、何もありませんけど。」

「なら一々こっちに話を振るな!」

二人のやり取りに、僅かな驚きと共にキラに笑みがこぼれた。

イザークはキラと同じくプラントに侵略された国の人間だが、ニコルは生粋のプラント貴族だ。イザークとキラはまだ数時間の付き合いだが、彼がただのプラントの貴族と馴れ合う様な性格とは思えない。

だが、彼等の会話には明らかに気安い者同士の阿吽の呼吸が見え隠れする。それは、イザークが少なからずニコルに気を許している事を示していた。ニコル独特の当たりの柔らかい話し方と穏やかな微笑がそうさせるのだろうか。そしてそれは、神経を張り詰めているはずのキラの心にもするりと入り込もうとしている。

プラントへの怒りと憎しみは当然胸の奥に今もあるが、個人にそれを向ける事は不毛だという事くらいキラにも判っている。そして、プラントの有力者である彼の心象を悪くする事は極力避けるべきという事も。

一方のニコルとイザークだが、こんな言い合いとも言えないじゃれ合いのようなものは毎回の事なのだろう。気にした様子もなくイザークはフンと鼻を鳴らし、ニコルは軽く肩をすくめてキラに向き直った。

「まずは、連絡事項です。貴方は陛下の側付きとなりますが、所属自体は便宜上ザフトに組み込まれます。とはいえ、それはあくまで便宜上のものであり、貴方にはザフトの兵として与えられるあらゆる権利、権限は許されません。馬も、部下も、金も、何一つです。」

キラがイザークを見れば、苦い表情で彼は頷いた。どこまでもイレギュラーな存在である自分たちだ、扱いはそんなものだろうとキラは納得する。しかし、話はそれで終わりではなかった。

「そして、ザフトのトップは僕ですが、基本的に僕から貴方に命令を下す事はありません。側付きの長も居ますが彼が命令することもありません。あなたに命令を下す事ができるのは陛下お一人のみです。」

「・・・・・・?」

イレギュラーの存在としても理解しがたい状況だ。思わず不可解な顔をしたのがわかったのだろう、ニコルもまた苦笑した。

「まあ・・・そのうち慣れますよ。判らないことはイザークに聞けばいいでしょう。キラもイザークと同じ扱いですから。」

「・・・はい。」

キラの常識から言えばその決定は理解しがたいものだったが、王の決定ならば従わなくてはならない。しかし、王の目的がわからない。

王は何を考え、何を自分にさせようとしているのか、とキラは考える。

「僕は勿体無くも子供の頃から陛下の遊び相手として宮廷に上がりまして、その縁あって今も目を掛けていただいているんですけどね。」

ニコルはそのまま普通に話を続けたが、そこで何かに気づいたイザークが腰を浮かした。

「ニコル!」

しかしその制止は一瞬遅かった。

耳に障る鞘走りの音と共にニコルは腰に下げていた剣を一瞬で抜き放ち、物思いに反応の遅れたキラの首筋にピタリと狙いをつけていた。